思考が重荷なのではない。 不必要な思考が重荷なのだ
思いでいっぱいになっていれば、
精神、マインドは曇る。
明瞭には見られない。
だが、ではどうしたらいいのか。
想念はそこにある。
そこにいさせなさい。
無関心でいるのだ。
想念には
そこにいさせておけばいい。
それに巻き込まれてはいけない。
想念は想念で勝手に動く。
動かせておきなさい。
どうしてあなたが巻き込まれて
その邪魔をしなければならないのか。
想念は川のように流れる。
流れさせておきなさい。
自分は土手に座って、
休んでいればいい。
自分の想念に言えばいい。
「いいとも。空に雲があり、
地に樹と川と海があるのなら、
頭、マインドに思いがあって、
何がいけない」と。
それを受け容れてやりなさい。
あなたはそれを受け容れて
「いいよ」と言ったら
突然ある変化を感じるはずだ。
何故ならその思考が動くには
あなたのエネルギーが要るからだ。
もし無関心でいたら
徐々にそのエネルギーは
ひとりでに退潮し
思考はだんだん少なくなる。
そうすれば、
必要な時にだけ、
思考が来るという瞬間が来る。
思考が重荷なのではない。
不必要な思考が重荷なのだ。
それが
人の目を曇らせる。
視界が曇るのは
不必要な
思考のせいだ。
動きたい時は
二本の足を使う。
考えたい時は
思考を使う。
伝達したい時は
マインドを使う。
だが木の下に座っている時、
どうして足を動かし続けることがあろう。
それでは気違いだ。
だが、あなたのマインドは動き続ける。
マインド、思考作用とは
ひとつの機能だ。
そして機能は、
正しく使えば役に立つ。
必要とされれば
マインドは
機能し始める。
今、私はあなた方に話している。
マインドが機能しているのだ。
でなかったら どうして話ができよう。
僧璨が何かを言っている。
だが私が話をやめる時には
その機能のスイッチは切られる。
その時マインド思考はない。
ちょうど足がないようなものだ。
動いていない時には足はないのだから。
マインド、思考は
それ自体ではいいものだ。
あらゆるものは本来の場所に
おさまっていれば
それ自体はいいものだ。
それなら全てがぴったり行く。
全てが本来の場所におさまっていれば
靴は完全にぴったり合う。
マインド思考が必要な時には
それを使うがいい。
それが必要でない時には
脇においておきなさい。
あなたが主人である限り、
全ては機能に過ぎない。
だがマインド、思考は母屋を
乗っ取ってしまった。
何をしようと
それに関係なくマインド、思考は
勝手に動き続ける。
まるで人は自分のラジオのスイッチを
切れないようなものだ。
スイッチは壊れてしまって、
ラジオは鳴り続けたままだ。
自分は眠っているのに
ラジオは鳴り続ける。
休んでいても、
食べていても、
愛し合っていても
ラジオは鳴り続けている。
そして
絶えずそれを
我慢しなければならない。
やがて
ラジオがなりっぱなしだと
という事実に慣れてしまう。
あなたはただ聴かなくなる。
これがあなた方のマインドに
起こったことだ。
それがひたすら鳴りなり続けているのに
それを消すスイッチが
どこにあるかを知らない。
だからあなたはもう聴かない。
ただそれを我慢して無視する。
そして まるで永久に
そういうものであるかのように
当然のこととして受け入れてしまった。
だがそうではない。
そうでなければ覚者など起こり得ない。
私がこういうのは
自分の経験から言っているのだ。
決してそうではない、
スイッチをつけ直すことは
出来るのだ。
それこそが瞑想の全てだ。
瞑想は人を光明に導くのではない。
ただ無くなっているスイッチを
取り付けるだけだ。
壊れてしまったスイッチ、
動かなくなったスイッチ、
あるいはまだ付いていても、
どう動かすかを忘れてしまった
スイッチの使い方を教えるだけだ。
瞑想とはテクニックだ。
そしてそのテクニックとは
ある機能を支援しうるだけだ。
あなたの実存を支援するのではない。
だからどんな瞑想も
直接あなたを
実存に導きはしない。
それはただ、
機能を修理する過ぎない。
すると、
靴が完全にぴったり合って
あなたは光明を得る。
荘子は正しい。
「靴が合っていれば靴のことは忘れる」と。
あらゆる機能がぴったりしていたら、
見かけの世界はもう存在しない。
人は 光明を
得ている。
突然 、
すべてがそのままで
光に満ちる。
0sho
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