OSHOの般若心経
【一切が神聖だ】
『麗しく、また聖なる
知恵の完成者に礼したてまつる』
ビューティフルな挑発だ
それはこう言っている
「私は彼方へと踏み入った時に来る
知恵に対して敬意を表します」と
そして、それは麗しきものであり、
それは聖なるものでもある
神聖であるのは、
あなたが全体とひとつに
なるからであり、
麗しいのはあなたの生に
あらゆる種類の醜さをつくり
出していたエゴがもうないからだ
サティヤム(satyam)
シヴァム(shivam)
スンドラム(sunderam)
それは真である
それは善である
それは美である
それが三つある特性だ
なぜそれが聖なるもの、
と呼ばれるのか?
それはブッダ たちがそこから
生まれ出るからだ
それはブッダたちの母胎なのだ
あなたはこの知恵の完成に
あづかったその瞬間、
ひとりのブッダとなる
あなたは露のしずくが大海に
消え失せた時、
分離をなくした時、
もうそれ以上「全体」と
争うのをやめた時、
自分を明け渡し、
「全体」と一緒になり、
もうそれ以上それに
対立しなくなった時 、
ひとりのブッダとなる
それがゆえに、
私は強調してやまない
自然と一緒になりなさい
決してそれに対峙しないこと
決してそれに打ち勝とうとしないこと
決してそれを征服しようとしないこと
決してそれを負かそうとしないこと
もしそれを負かそうなどと
しようものなら、
あなたは破綻の定めにある
なぜならば
部分が全体を負かすことが
できないからだ
それを誰もがそうしようと
頑張っている
だからこれほど
ひどい欲求不満になるのだ
誰も彼も敗者だから…
誰もが全体を征服しようと
頑張っている
川を押し進めようと頑張っている
当然あなたはある日、疲れてしまう
へとへとになってしまう
あなたはごく限られた
エネルギー源しか持っていない
川は広大だ
ある日、
それはあなたを圧倒する
だがあなたと来たら
欲求不満になりながら渋々折れる
もしあなたが喜んで
折れることができたら
それは「明け渡しsurrender」になる
そしたら、
それはもう負けじゃない
それは一つの勝利だ
あなたは神の側についてこそ
勝利できる
決して神に対立してはできない
そして覚えておきなさい
神はあなたを任せようとなど
していない
あなたの敗北は
自己発生的なものなのだ
あなたが負けるのはあなたが
戦うからにほかならない
もし負けたかったら戦うがいい
もし勝ちたかったら明け渡しなさい これはパラドックスだ
折れる用意のできた者が
勝者となる
敗者だけがこのゲームの勝者なのだ 勝とうとしてごらん
そしたらあなたの負けは絶対に確実だ
それはただ、いつかという
時間の問題に過ぎない
だがそれは確実だ
それは起こらずには済まない
それは神聖(holy)だ
あなたが全体(whole)と一つだから
あなたはそれと一緒に脈打つ
あなたはそれと一緒に踊る
あなたはそれと一緒に歌う
あなたは風に舞う
木の葉のようなものだ
木の葉はただ風と共に踊る
自分の意志など持っていない
この無意志性こそ
私がサンニャースと呼ぶものなのだ
この経文が聖なるものと
呼ぶものなのだ
神を父として捉える
キリスト教の概念はあまり
ビューティフルなものではない
それは男のエゴ以外の何物でもない
男のエゴは神が彼女であり得るということを思い浮かべることもできない
男のエゴは神を彼にしたがる
それに、キリスト教の三位一体の
全体を見てごらん
三人とも全部男だ
そこには女は含まれていない
父なる神
子なるキリスト
そして聖霊…
まるで男性専用クラブだ
しかしよく覚えておきなさい
生において「女性」の方が
「男性」よりもずっと本質的なものだ
なぜならば、
子宮を持っているのは
女の人だけだからだ
生命に新しい生を与えられるのは
女の人だけだ
それは「女性」を通じてくる
なぜそれが女性を通ってくるのか
それは単なる偶然ではない
それは女性を通ってくるのは
それは来るのを許すことが
できるのが女性だけだからだ
女性というのは受容的だからだ
男性は攻撃的だ
女性は受け入れ、
吸収することができる
ひとつの通路になることができる
あらゆるブッダ たちの源で
あるところの 完全なる知恵は
一種の女性的要素「 母」 なのだ
子宮は母でなくてはならない
神を父と思うようでは
あなたは自分が何をやっているのか
わからないのだ
父親というのは一つの不自然な
「制度」にすぎない
父親というのは自然界には存在しない
父親というのはここ数年の
存在でしかない
それは人間の作った「制度」なのだ 母親の方はあらゆるところに存在する
母親というのは自然なものだ
神を父と見なしてきた宗教は
全て攻撃的な宗教だった
キリスト教は攻撃的だ
イスラム教もしかり
そしてユダヤ教の神が
とても怒りっぽい傲慢な神だ
というのも 周知の事実だ
ユダヤ教の神はこう言う
「もし私に帰依しないならば、
それは私に反対していることだ
そんなやつは滅ぼしてやる
私はとっても嫉妬深い神だ
私だけを崇拝するがいい」
神を「母」としてみなしてきた人は
私は非暴力的だった
仏教徒は一度として宗教の名を借りた 戦争などをしていない
彼らは一人の人間といえども
決して力ずくで、
強制的に改宗をさせようと
したことはなかった
仏教徒のみが
非暴力の宗教だ
それは究極のリアリティーについての仏教の概念が
女性的なものだからにほかならない
そして、覚えておきなさい
真実は美しいものだ
真実はそれが祝福で
あるがゆえに美しい
真実は醜くはあり得ない
そしてまた、醜いものは
真実ではあり得ない
醜いものは架空のものだ
醜い人を見ても、
その醜さに騙されないこと
もう少し深く探ってごらん
そこにはきれいな人が
隠されていることだろう
その醜さに騙されないこと
醜さはあなたの
解釈の中にあるだけだ
生は美しい
真実は美しい
存在は美しいものだ
それは醜さなどと
いうものを知らない
そして、それは麗しい
それは女性的だ
そして、それは神聖だ
ただし、覚えておきなさい
「聖なる」というのは
あたかもそれが
あの世的なものであったり、
現世的な、卑俗なものに対して
神聖だというような
ありきたりの意味で
使われているのではない
違う
一切が神聖だ
現世的だとか、俗だとか
呼ばれ得るようなものは
何ひとつない
一切が神聖だ
なぜならば、
一切は「ひとつ」なるもので
みなぎっているのだからだ
いるのはブッダに次ぐ
ブッダばかりだ
ブッダ樹、ブッダ犬、ブッダ鳥、
そしてブッダ男にブッダ女、
とにかく、一切がブッダだ
すべてがその途上にある!
人間は廃墟の神ではない
人間は製造中の神だ
その途中なのだ
【Oshoの言葉】