ブッダは「ただ知れ、すると汝自身は見つからない」と言う

 禅は究極の開花だ

 ゴータマ・ブッダのイメージを 

少しずつ磨き上げながら、

禅師一人一人が何らかの貢献をし、 

新しい地平をもたらしてきた 

 ゴータマ・ブッダは 

人類の歴史の中でただひとり、

 「エゴを落とすだけではだめだ 

神を落とせばエゴも簡単に落ちる」

と言った人だ 


彼は神を落とした 

するとエゴは消え失せた 

月が消え失せれば、 

]影も消え失せる 

 彼は鏡から離れ去った

 すると鏡は空っぽになった 

鏡に映る影は消え失せた 

彼はずっとその影と戦っていた 

 そしてブッダは理解した 

神と共にエゴが消え去ると 

自己でさえ消え去ってしまう


 宗教の中には、神やエゴや自己を 

持つものがある… ユダヤ教、キリスト教、 

イスラム教、ヒンドゥー教だ 

 また神を持たない宗教がある… 道教、

仏教、ジャイナ教だ 

 それもまだ自己はある 

神はないから、 

エゴはひとりでに落ちる 

それで全力を傾けて、 

自己を純粋なものにしよう、 

敬虔なものにしようとする 

そうして別種の努力が現れる 


 ブッダはただ一人こう言った 

 「神がなくなり、 エゴがなくなると 

自己もまた足場を失い、 

根拠のないものになる」

 自分の内側深くに入っていけば、 

突然、自己は意識の大海に 消え去っていく 

 自己なるものはない あなたはいきなり無く、

 ただ【存在】のみがある… 

だからこそ私は 禅のことを

自己からの 本質的な自由と言うのだ 

 他にも自由と言われるものは 色々あるが、

自分自身からの 自由こそ究極的な自由だ 


自分は存在せず、 その代わりに

【存在】が 自分自身を表現するにまかせる… 

どこまでも無碍自在に、 

そして壮大に… 

それは【存在】であって、 

「あなた」でも、 「私」でもない 

それは「生」そのものが 舞い踊っているのであって、 

「あなた」でも「私」でもない 

これこそが禅マニフェスト、 

自己自身からの自由だ 

 そして禅のみが この二十五世紀の間、 

様々な方法や方便を磨きあげ、

 「あなたはいないのだ、 あなたは無根拠であり、

 ただの観念だ」ということを 気づかせようとしてきた 


マインドを越えていくにつれて、

 「私はある」という観念でさえ 消えていく

 「私」が消え失せ、 

【存在】への深い参入が 感じられるようになり、

 境界線がなくなって初めて、

 禅はあなたの中に花咲く 

実際、それこそが、 

目覚めた意識の状態であり、 空間だ 

でもその中心には、 「私」も 

 「我」も 自己もない 

 つまりこういうことだ


 ソクラテスは 「汝自身を知れ」と言うが

 ゴータマ・ブッダは 

「ただ知れ すると汝自身は見つからない」 と言う

 自分の意識の中に入り、

 深く深く 進んでいけばいくほど 

自己は融け始める おそらく、

だからこそ 禅以外の宗教は瞑想を 

試さなかったのだ 

なぜなら、 瞑想は神を破壊し、 

エゴを破壊し、 自己を破壊するからだ 

 瞑想はあなたを絶対的な 無の中に放り出す 

あなたが無を怖がるのは、 

他でもなく マインドのせいだ 


Osho禅宣言より

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